小野為八は、松下村塾生として
その名は、あまり知られていませんが、
多才な人物であったようです。
例えば、萩城天守の写る有名な写真は、
実は、明治時代初期に
小野為八が撮影したと言われています。
そこで、今回は
そんな小野為八をご紹介させて頂きます。
小野為八の生い立ち
小野為八(正朝)は文政12年(1829)に
香川津にて、藩医(眼科医)・山根文季(正直)の
長男として生まれました。
弟は山根孝中で、叔父に山根正次がいました。
寺社組本道医(内科)・小野春庵のもとで
幼少より教育を受け小野家の養子となりました。
けれども、為八は医業は継がず兵学者を志しました。
天保15年(1844)、16歳の時に
吉田松陰に師事して山鹿流兵学を学んだと
『小野正朝履歴』という記録にあります。
ただ、松陰は為八より1歳年下ですので
当時15歳の少年が弟子を取ったとは
考え難いので、これは誤伝と思われます。
小野為八 長崎で学ぶ
その後、為八は長崎に赴いて、
洋式砲術を学んで免許皆伝を得て、
砲術家としての理論や実践を身に付けます。
長崎では、砲術のみならず
電気や写真の知識や技術も学び
長州に戻りました。
安政2年(1855)、為八は
実父の山根文季に随行して、
外国船を警戒する相模の
三浦半島の警備に赴いています。
小田村伊之助もその翌年には、
藩命で三浦半島警備に出かけていますので、
顔を合わせていた可能性があります。
小野為八と松下村塾
安政5年(1858)秋、為八が30歳の時に
松下村塾に通うようになります。
為八の実父・山根文季は、
松陰と交友がありましたので
実父の影響もあったと思われます。
けれども、為八が松下村塾に入門する
直前の8月、実父・山根文季は、
コレラに感染し亡くなりました。
それからしばらくして
松陰は井伊大老の命を受けて
京都に乗り込んでくる
老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の
要諫を計画します。
「地雷火」の実験
その頃、塾生たちが
萩の土原(ひじわら)扇の芝で
「地雷火」の実験を行ないます。
この「地雷火」の実験の際、為八が
自宅蟄居中の松陰を背負って
連れ出し見学させた・・
という逸話があります。
自分の足での外出が許されないのならば、
背負っていけばよいというわけですが、
残念ながら、この松陰の外出を
裏付ける史料は存在していません。
しかしこの「地雷火」の実験で
為八は藩から咎められ、
自宅謹慎に処せられます。
「地雷火」とは
「地雷火」とは、意味合い的には、
現代の地雷になります。
導火線をつけた火薬入りの木箱を
地中に埋めたもので、
「地雷火」には2つのタイプがあります。
- 人が踏んだ重みで爆発させるタイプ
- 時限式に起爆させるタイプ
ドラマ【花燃ゆ】で出て来たものは、
為八が電気を用いて起爆させてますので
後者になります。
実は、「地雷火」のような武器は
幕末に初めて登場したわけではありません。
戦国時代の頃から
「埋火(うずめび)」という名で
存在していた忍術書に記載があり、
一説に、大坂の陣で
真田幸村が用いたとも言われています。
小野為八 洋式砲術で活躍
自宅謹慎から許されてからは
その多方面の知識をもって
長州藩の洋式砲術の教官となります。
文久3年(1863)、長州藩が下関海峡で
アメリカ・フランス・オランダの艦隊を
攘夷決行した際には、久坂玄瑞らとともに、
藩船・癸亥丸に乗って艦砲射撃を指揮しました。
同年に、高杉晋作が奇兵隊を結成すると、
砲術を兵士たちに指導する一方、
「地雷火」の作り方も隊士の
吉岡新太郎、西村慶太、進藤判蔵に教えました。
元治元年(1864)禁門の変、
慶応2年(1866)第二次長州征伐(四境戦争)では
砲隊長として芸州口に出撃、
明治2年(1868)戊辰戦争でも砲隊司令となり
砲兵隊を指揮して活躍します。
小野為八 明治維新後の活躍
明治維新後は公務についていましたが、
公務から退いてからは
明治8年(1875)に、
山口市に河村写真館を開く一方、
酪農・バターの製造や、
焼き物の東光寺焼き等にも取り組み
多岐にわたり活動しました。
かなりの多才で、等魁という画号もつ
雲谷派の絵師でもありました。
明治10年(1877)には山口県雇となり、
明治2年からは神道黒住教に入信して
布教活動にも従事しました。
そして、明治40年(1907)8月20日
享年79歳で呉市にて死去。
従五位が贈られました。