吉田松陰の最期 2

                                         

吉田松陰の最期 1 からの続きです。

留魂録』は、全16章から成り
有名な辞世の句

  • 身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂
    十月念五日 二十一回猛士

は、冒頭に書き込まれました。

処刑の前日の夕方、最後に数首の句が詠まれます。

かきつけ終わりて後

  • 心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
  • 呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
  • 討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
  • 愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
  • 七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや

十月二十六日黄昏書す         二十一回猛士

 


 

松陰の死生観

ashouka002留魂録』は、その後、
長州藩志士達のバイブルとなり、
「松陰の死」とともに、
明治維新へと突き進む
原動力の一つとなります。

そんな『留魂録』の中に
次のような一節があります。

10歳で死ぬ者には
10歳の中に自ずから四季が備わっており、

20歳には20歳の、
30歳には30歳の四季がある。

50や100で死ぬ者にも
それぞれに四季があり、
人間の寿命の長短とは関係がない。

今、30歳で死ぬ自分にも
きちんと四季が巡り、

春に蒔いた種が成長し、
やがて花を咲かせ、
実を結んだのだから、
何ら悲しむ必要はない。

収穫した籾(もみ)が十分に実ったものか、
それとも実のないしいな(実っていない籾)であるかは、
自分の志を継ぐ人々が後に続くかで決まる。

人の一生は誰にも四季がある・・
とする松陰の考え方は、
非常に深い洞察に満ちた言葉です。

また、松陰は、弟子たちが
自分の志を必ず受け継いでくれるものと
信じていたことも伝わってきます。

 


 

松陰の最期

ashoin001安政6年(1859)
10月27日(11月21日)朝、
松陰は評定所に呼び出され
死罪を宣告されます。

死罪の宣告を受けた時の松陰の様子を、
取調べで居合わせた世古格太郎は、
次のように伝えています。

2、3人が松陰の腕をとらえ、
気息荒々しい様子だが、
一人の同心が
『御覚悟はようござりますか』と問うと、
松陰は『もとより覚悟のことでござります。

その後、一人の同心が
『ああ惜しき者なれど是非もない』
と嘆息した。

また佐倉藩の依田学海は
八丁堀同心から聞いた話を
次のように伝えています。

吉田寅次郎の様子に人々は感泣した。

死罪宣告に『畏まり候』と答え、
日頃介添えした役人たちの労を
言葉やさしくねぎらい、
刑に臨み心静かにうたれた。

およそ死刑に処せられる者は多いが、
これほどまでに従容たる態度の者は
見たことがない。

そして、午前10時頃
そのまま小伝馬町の
牢内の一角に設けられた刑場に
松陰は、引き立てられます。

松陰の首をはねた
山田浅右衛門の言葉も残っています。

悠々として歩を運んできて、
役人どもに一揖(いちゆう)し、
『御苦労様』と言って端座した。
その一糸乱れざる態度は、
幕吏も深く感嘆した。

この最期の姿に、
吉田松陰という人の人格が
よく表われています。

享年30歳の若さでした。

吉田松陰の最期 3 へと続く。

 


 

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