吉田松陰の最期 1

                                         

江戸に送られ、小伝馬町の牢に
つながれた吉田松陰を
高杉晋作がたびたび見舞います。

その際、高杉は松陰に問いかけます。

  • 大丈夫たる者の死に所とはどこでしょうか ?
  • 私は今、何をすべきなのでしょうか ?

 


 

高杉への書簡

ashoin高杉の問いに対し、松陰は、
手紙で、次のように返答しました。

死は好むべきものでなく、
また憎むべきものでもない。

道のために死ねば心安らかであり、
これこそ死所というべきである。

世の中には、肉体的に生きているが、
心はすでに死んでいる者があり、

身体は滅びてしまったが、
魂がまだ生きている者がある。

心が死んだのでは
生きている意味はまったくないが、

魂が残っているのならば
必ずしも生きていなくともよい。

死して不朽の見込みあらば
いつでも死ぬべし、

生きて大業の見込みあらば
いつまでも生くべし。

僕の所見では、
生死は度外において、唯、言うべきを言うのみ。

生死は度外において、唯、言うべきを言うのみ
という最後の部分は、評定所で
松陰は自ら身を以て実行して見せます。

 


 

「玉砕」を覚悟する

ashoin001評定所で、間部老中暗殺計画を追及する
奉行たちと応酬している中で、
処刑の免れないことを松陰は覚悟します。

中国の南北朝時代の北斉の詩に
「瓦となって全うするより、玉となって砕け散る」
とあります。

松陰はこの詩にならって
「おたおたしても仕方ない。
自分は『玉砕』しよう」
と決心します。

この後は、松陰は
1日1冊のスピードで読書を始めます。
早い時には1日2冊読みました。

それも単なる通読ではなく
しっかりと勉強したのです。

 

 

『留魂録』

shouin自身の処刑が間もないと悟った松陰は
10月25日から26日にかけて
門弟に向けて遺書を書き上げます。

それが『留魂録』です。

松陰は、何とか塾生たちに伝わるようにと、
直筆の書の『留魂録』を2通作成していました。

松陰の処刑後、
門弟の飯田正伯の手に伝わり、
萩の主だった塾生宛てに送られた
『留魂録』は、
塾生の間で写本が作られ
回し読みされますが、
正本は、いつしか行方が
わからなくなってしまいます。

現在に残っている『留魂録』は、
松陰が小伝馬町の牢中で起居をともにした
牢名主の沼崎吉五郎に
松陰が託した方の正本です。

沼崎吉五郎は、小伝馬町の牢から三宅島に遠島となり
褌(ふんどし)の中に隠したまま持ち出し、
そこで明治維新を迎えます。

明治7年(1874)に赦免されて東京に戻った沼崎吉五郎は、
明治9年(1876 )に、神奈川県権令となっていた
野村靖を訪ね、『留魂録』を渡し、
松陰との約束を果たしました。

沼崎が所持していた『留魂録』は
現在、萩の松蔭神社に収められています。

吉田松陰の最期 2 へと続く。

 


 

コメントを残す