小伝馬町の牢獄 野山獄と岩倉獄 身分の差

                                         

吉田松陰の最初の弟子 金子重輔 3 からの続きです。

4月11日早朝、松陰と重輔は
手に手鎖、足にほだを打たれ、
身に捕縄をかけられて、天城を越え、
唐丸籠で、江戸八丁堀の獄舎に到着しました。

 


 

小伝馬町の牢獄

吉田松陰と金子重輔は、身分の差により、
この辺りから運命が分かれて行きます。

まず、北町奉行所での取り調べでも、
武士身分の松陰は「板縁」に座らされたのに対して
足軽身分の重輔は「お白洲」に座らされます。

その後、小伝馬町牢屋敷に送られますが、
松陰は「駕籠」、金子は「徒歩」で連行されます。

小伝馬町の牢屋敷の牢獄でも別々に収容されます。

重輔は、松陰と同じ揚屋(あがりや)ではなく
身分の低い者を収容する無宿牢に入れられ、
その後、百姓牢に入れられました。

一方、小伝馬町の牢屋敷には、
一足先に逮捕されていた佐久間象山もいて
その取り調べが行われていました。

松陰は、

  1. 密航は、あくまでも自分一人の画策であり象山には関係が無い
  2. 重輔も、自分が煽動したから、ただついて来ただけ

と、言い張りました。

象山も

「優秀な青年の海外見聞が日本にとって必要であり急務である」

と、堂々とした態度で主張して、幕府の在り方を責め立てたのでした。

 

松陰が、入れられた武士の牢は10人程度でしたが、
百姓牢は80人も狭い中に詰め込まれていたので、
重輔は、身体を壊し痩せ細って行きました。

これを聞いた松陰は、
重輔を、何とか自分と同じ牢に移そう
獄吏や牢名主に賄賂を送ったりしましたが
叶いませんでした。

この間、百姓牢の中で
重輔の身体は日々衰弱の一途を辿って行きました。

 


 

金子重輔の惨状

安政元年(1854)9月18日、幕府から判決が下り、
松陰と重輔は、国元・萩での蟄居(ちっきょ)を命じられます。
象山も同罪でした。

その頃、重輔は、体中に小さな瘡ができる皮膚病を患い、
下痢も止まらず、衰弱し切って立ち上がることもできなく
判決文も横たわったまま聞くような状態でした。

小伝馬町の牢から、長州藩邸(下屋敷)に引き取られる際には
もう歩行ができない状態で、戸板に乗せられて運ばれました。

また、身分が低い重輔は、
治療も受けさせずに放置されていたため
松陰は、絶食して抗議し、重輔への投薬を求めました
一度だけさらっと医者に診てもらっただけで、
萩への護送となりました。

松陰と重輔は腰縄をつけられ
せまい罪人駕籠の中に押し込められ、
国元の萩に護送されました。

半年前までは、籠での護送くらい何でもないくらいの
頑健な肉体を持っていた重輔でしたが、
半年余りの劣悪な牢生活で、すっかり衰弱してしまいました。

護送中の宿舎も、籠を宿の土間に置き
その土間に置かれた籠の中に入れられたまま過ごすという
ひどい扱いでした。

特に重輔は身分が低いので扱いは惨酷でした。

重輔は、下痢で苦しんでいても、
用便のために籠から出してもらうことは
許されませんでした。

そうなると、
当然、衣服は汚れ悪臭を放ちますので、
護送の人達の扱いは、
ますます冷たくなって行きました。

重輔は、着替えを頼むのですが、
護送の人達は面倒なので、
着物の汚れた部分を切り取られるだけで
そのまま先を急ぐのでした。

重輔の惨状は目をおおうばかりとなり、
松陰が護送の役人に重輔の着替えを頼むのだが、
「罪人の指図は受けぬ」と、応じようとしません。

あまりの非人道的な役人の扱いに、
「武士の情けを知らぬのか」と松陰は激怒し、
遂には自分が着ていた綿入れを脱ぎ
「金子に着せてくれ」
衣類を着替えさせることを強引に認めさせました

旧暦の9月末は、今の暦では11月半ばになりますので
薄い牢衣姿での長旅は、健康な者でも弱りかねません。

そんな状況の中でも重輔は
先生を凍えさせて自分だけが着用できませぬ
と、松陰の着物だけは、頑として受け取りませんでした。

松陰の着物は受け取らなかったものの
松陰の心遣いのおかげで、その一回だけ
着替えることができました。

重輔は、さらに衰弱して食事も受け付けなくなってしまい、
長州藩領に入って医者が診た時には、
脈も弱く、もはや手遅れの状態となっていました。

 

 

金子重輔の獄死

anoyama10月24日、萩に到着すると、
松陰と重輔は、またも牢獄を分けられました。

松陰は武士階級の「野山獄」に入り、
重輔は農民・町民階級の「岩倉獄」に
入れられました。

二つの獄は道を挟んで向かい合っているものの
往来はありません。

野山獄は独居房で、岩倉獄は雑居房です。

重輔は、岩倉獄の劣悪な環境のため
皮膚病に加え、寒さから肺炎を併発します。

松陰は
「重輔を医者に見せてくれ」
「独居房に移してくれ」と懇願したが、
聞き入れらることはなく、
重輔の衰弱しきった体も、二度と回復することはありませんでした。

そして翌年、1月11日、獄中にて重輔は25年の短い生涯を終えました。

 

 

吉田松陰の悲嘆と金子重輔への供養

重輔の死を知った松陰の悲嘆は尋常ではありませんでした。

asekitoそれから出獄するまでの1年間、
獄中の食費を削って金百疋を貯め
重輔の母・ツルに送っています。

このお金は、重輔の墓前の「石の花筒」として
使われたと言われています。
また、松陰は重輔の死を弔うために
生前の重輔の知人達へ詩歌の寄稿をお願いし、
寃魂慰草」(めんこんいそう)を編纂して後世に残してやりました。

さらに、松陰の呼びがけで、野山獄において、
金子重輔の獄中句会を開いて、重輔の霊を弔ったと云われています。

 


 

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