吉田松陰と金子重輔 密航を決行する

                                         

吉田松陰の最初の弟子 金子重輔 1 からの続きです。

横浜に到着した翌日の夜、
松陰は、佐久間象山を訪ね
松代藩陣屋に行きました。

どうやって横浜沖の黒船に近づくかを
相談するためです。

 


 

黒船密航に何度もトライ

ashozan象山は、
漁師に変装し夜陰に乗じて黒船に近づく作戦
を、二人に提案しました。

そして、象山が手配した船に
いよいよ二人は乗り込みましたが、
いざとなると船頭が拒んでしまい頓挫。

やむなくその夜は松代藩陣屋に泊まりました。

その数日後、今度は
象山の紹介で浦賀の組同心に頼んでもらい、
水蒔積み込みの官船に乗せてもらって黒船に近づく作戦
を考えましたが、これもうまく行きません。

次に
船頭に酒を飲ませ大金を与えて船を出させ黒船に近づく作戦
で、やっと海に船を出せましたが、
いざ黒船に近づくことを船頭が怖がり、
これも失敗しました。

そうこうしているうちに
ペリー艦隊は下田移動してしまいました。

3月13日、象山と別れ、
松陰は重輔とともに下田に向かいます。

 


 

「投夷書」を渡す

atouzi嘉永7年(1854年)3月18日に
松陰と重輔は下田に到着しました。

松陰は、疥癬(かいせん)という
皮膚病の湯治のため
蓮台寺温泉に赴き、
医師の村山行馬郎(ぎょうまろう)家に
数日間、泊めてもらって治療しました。

3月21日 ペリーの艦隊が下田沖に現れました。

松陰は蓮台寺と下田を行き来し
重輔は下田に留まりながら、
下田郊外で散策中のアメリカ人士官に
投夷書」を渡す準備をしていましたが、
なかなかそのチャンスが訪れません。

3月24日 ペリー一行が日本側から
下田の了仙寺で饗応を受けるため、
取締りが厳しくなりました。
そのため、松陰と重輔は宿屋から宿泊を拒まれます。

3月25日 宿屋に泊まれない松陰と重輔は
弁天島の祠に入り潜んでいました。

3月27日朝、柿崎海岸で「投夷書」を
アメリカ士官に手渡すことに
ようやく成功した二人は、夜を待ちました。

黒船からの迎えのボートを手紙では要求してあり、
そこまでは小船で乗り付けるという計画でしたが、
迎えに来なければ、出した小船で
そのまま黒船まで乗り付けるつもりでいました。

 

 

フンドシで櫓を縛る

いよいよ決行です。
松陰は漁師から船を借りようと考えてましたが、
「それは無駄です。盗みましょう。」
と、重輔は言って、本当に盗んできました。

3月28日午前2時頃、
二人は船に乗り、水上に押し出しました。

船が岸からはなれてすぐ、
その船は、櫓を固定する杭が
盗難除けに外されていていることに気づきました。

二人は、外したフンドシと帯で
櫓を船に縛り付け手で押さえ、
黒船の艦隊のいる沖に向かい小船を
力一杯漕ぎ出しました。

5分もしないうちに手がしびれてきましたが、
なんとか船を漕ぐことができました。

 

密航に失敗

一番近くに碇を下ろしていたミシシッピー号に近づき、手紙を渡しました。

手紙は漢文で

我メリケンに行かんとす。手紙を大将に渡せ

という内容のものでした。

ミシシッピー号に接舷しましたが
この船には言葉を解せる者がいなかったため、
沖のにいる旗艦であるポーハタン号に行け
と指示されます。

apota小舟に縛りつけたフンドシが
途中で千切れてしまったり苦労しながらも
ペリーのいるポーハタン号
ようやく乗り付けた時には、
二人は素裸の状態でした。

軍艦の水兵と争いながら
ポーハタン号に飛び移ったため、
刀や荷物を載せた小舟は流されてしまいました。

ポータハン号には、正式な通訳者ウィリアムズがおり、
日本語も漢字も理解することができました。

また、松陰の渡した「投夷書」もありました。

メリケンに連れて行ってくれ。
もし断られたら死刑だ。

 国法を犯しても世界を見たい。
それが日本の役に立つ

と、松陰は懇願しました。

私情としては、
 この『哀れな日本人』を連れて行ってやりたいが、
 今はその時期ではない。駄目だ

と、ウィリアムズに断られてしまいます。

ペリーへの面会も
身振り手振りを交え必死に求めましたが
思いは果たせず二人は悲嘆に暮れました。

アメリカ側は、幕府条約が結ばれる大事な時期であり
密航という幕府の禁令を破った者を受け入れたとなれば
今後の外交関係に影響を及ぼす恐れがありました。

ペリーは、幕府への体裁から二人の乗船を拒否したのです。

二人が乗ってきた小船は沖に流されてしまった為、
ペリーは、福浦の浜までボートで送ってくれました。

吉田松陰の最初の弟子 金子重輔 3
 へと続く

 


 

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