吉田松陰と金子重輔 そしてペリーの黒船

                                         

静岡県下田市には「踏海の朝」という
吉田松陰の銅像があります。

松陰の横で膝をついているのが
金子重輔(かねこしげのすけ)です。

重輔(重之助とも呼ばれる)は、名は貞吉といい
長門国 阿武郡 紫福村の商人の家で
父・茂左衛門と母・ツルの間に長男として、
天保2年(1831)年2月13日に生まれました。

幼少の頃、白井小助に学び
その後は、久坂玄瑞を吉田松陰の元に行かせた
土屋蕭海からも学んだとされています。

 


 

弟子にしてください

松陰が「(はぐくみ)」という身分のまま、
萩から江戸遊学に戻って来た嘉永6年(1853)
重輔もまた、家業を嫌い江戸に出て来て
長州藩邸で雑役の仕事をしていました。

実家は染物業だったのですが、
足軽の金子家の養子となり、
長州藩士・久芳内記の組下の足軽として仕えてました。

20歳前後の頃の酒と色の失敗を反省して
勉学に励んでいた重輔は、
桶町河岸に鳥山新三郎が開いていた
蒼龍軒という塾に入門します。

宮部鼎蔵の親友の熊本藩士・永島三平の紹介もあり
この蒼龍軒に入門していた同藩出身の
2歳年上の吉田松陰と出会うことになります。

松陰の人柄に惚れ

「先生、私を弟子にしてください

と重輔が言うと

「教授ということはできないが、一緒に学ぶのならいいです」

と松陰は答えたと言います。

重輔は、松陰を得難い師と仰ぎ、
長州藩邸を出て、鳥山新三郎の家で
松陰とともに生活するようになりました。

松陰も、重輔に色々な学問を惜しみなく伝えました。

 


 

メリケンへお伴させてください

akurofune安政元年のペリー2度目の黒船来航のことです。

黒船を率いるペリー提督は、幕府に圧力をかけ、
12箇条からなる日米和親条約
締結させようとしていました。

松陰は、このことにより、
世界を知りたいという欲求を一層強め、
密かに渡航計画を立てるのでした。

この渡航計画は、当初は、松陰は
一人で遂行するつもりでした。

けれども、松陰の並々ならぬ決意を感じ取った重輔は
松陰に、その真意を問い詰めたのです。

重輔の情熱溢れる真剣な言葉に
さすがの松陰も心を動かされ、
この「途方もない計画」を打ち明けたのでした。

松陰は、淡々と語ります。

「年があけるとペルリ(ペリー)の艦隊が
再び江戸湾に大挙して来るでしょう。

そこに小舟で漕ぎ寄せて乗せてもらいます。
そして、僕はメリケンに渡り、多くを学んで帰ってくる。

そして救国の策を立てます。
日本を救う道は、それ以外にありません。

但し、この計画は成功の可能性は少ない
失敗したら・・・おそらく『刑死』でしょう」

感動に目を潤ませて重輔は言いました。

「先生ひとりではやれません。
どうか先生の『行』にお伴させてください」

計画を知ってしまった重輔は、
もう同行すると言ってききませんでした。

地位も、教養も、金もない重輔でしたが、
松陰のれっきとした「最初の弟子」だったのです。

一度言い出したら引かない頑固な松陰でしたが
重輔の情熱には、ほだされてしまい
ついに重輔の同行を認めてしまいました。

 

 

友人達とお別れ会

嘉永7年(1854)正月、江戸湾に
ペリーの艦隊7隻が現れました。

松陰は「3月5日」を
「大いなる計画」の実行日と決め
重輔に、友人達を集めてもらいました。

黒船密航計画を知った友人達は止めました。

「密航など、万に一つも成功しない」
と、宮部鼎蔵猛反対したと言われています。

しかし、松陰の決意は固く、
友人達に別れを告げ、
3月5日の夜、松陰と重輔は江戸を出ました。

ペリーの艦隊7隻が
横浜村に投錨していると知った
二人は、夜中に8里を歩き、
夜明けには保土ヶ谷まで到着し、
そこで宿を取りました。

一眠りしてから、
黒船に着いてから差し出す
密航希望の手紙である「投夷書」の準備に
二人は取り掛かりました。

また、計画が失敗した時に、藩へ迷惑が掛からぬよう
長州人であることは隠し偽名を使うことにしました。

松陰は、吉田家家紋の瓜の中の卍より、
瓜中万二」(くわのうちまんじ)と名乗り、

重輔は、藩邸を出てから、江戸では、
出身地の紫福(しぶき)から
「渋木松太郎」と名乗っていたが、
「渋木」は「柿」であるとし、
市木公太」(いちきこうた)と名乗りました。

吉田松陰の最初の弟子 金子重輔 2
 へと続く

 


 

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