吉田松陰と高杉晋作と久坂玄瑞 そして松下村塾

                                         

吉田松陰と高杉晋作 1 からの続きです。


高杉晋作
は、生涯で
厳しい教育を受けたことがありません。

そのため「」と仰ぐ人がいませんでした。

「真剣に勉強するのは面倒くさい」
と思っていた晋作でしたが
藩内の英傑・中谷正亮に勧められ
松下村塾に、顔を出すことにしました。

 


 

高杉晋作と吉田松陰との出会い

ashoin001松下村塾に顔を出した高杉晋作は、
そこで吉田松陰に「詩作」を見せます。

まだまだ、習作の域を脱していないが、
同年で、これだけの『漢詩』が書ける者はいない

と松陰は、内心思いましたが、

久坂玄瑞の意見を聞いてみよう

あえて言いました。

松陰は、晋作の
久坂玄瑞に対するライバル心」を煽ったのです。

松陰は、すでにこの二人が
松下村塾の双璧」になると思っていました。

 


 

吉田松陰の高杉晋作への教育方法

19歳の晋作と吉田松陰との出会いを、
晋作は、こう語っています。

「某(それがし)、少(おさなく)して無頼、撃剣を好み、
一箇(いっこ)の武人たることを期す。
年甫(はじめ)て十九、
先師(せんし)二十一回猛士(松陰のこと)に謁(えっ)す。
読書行道の理(ことわり)を聞き始める」

松陰も、晋作を

「識見気迫他人及ぶなく、
人の駕馭(がぎょ)を受けざる高等の人物なり」

と、大きく期待しました。

124594「いまだ学問は未熟で、
わがままなところもあるが、
晋作は有識の士であるから、
10年後にはすぐれた人物になるだろう。」

と、見ていました。また、

下手に矯正しては、晋作の
良い素質を萎縮させることになる

と松陰は考え、とやかく晋作の行動を
たしなめることはしませんでした。

一方、久坂玄瑞と比較すると
物足りなさも感じていたようです。

「暢夫(晋作のこと)は有識の士也、
しかるに学問はやからず、
又すこぶる意に任じ、自用の癖あり」

(晋作は有識者ではあるが、学問が遅れており、
しかもわがままで自説に固執する傾向がある)

と松陰は感じていたのです。

そこで松陰は、晋作の行動については
とやかく言わない代わりに、わざと
「久坂玄瑞の方が優れている」
と、晋作の前では、たびたび称賛しました。

 

 

高杉晋作の成長

atakasugi001負けん気の強い晋作は、
これに発奮猛勉強を開始します。

「いまだいくばくならずして、
暢夫学業暴長、議論ますます卓(すぐ)れ、
同志皆ために衽(じん)をおさむ(襟をただす)」

と晋作は松陰が評するまでになりました。

この辺の、その人の性格に応じながら
巧みにやる気を引き出すところは、
松陰の「教育」に対する
天性の才能を感じざるを得ません。

このように久坂玄瑞を、
晋作の競争相手となるように
松陰が、常に仕向けたことにより、
二人はお互いに競い合い切磋琢磨したため
久坂玄瑞の方もまた
めざましく自己を高めることができました。

やがて晋作は、

「予事を議する毎に、
多く暢夫(晋作のこと)を引て之を断ず」

(門弟たちと話し合って何かに決着をつける場合、
しばしば晋作の意見を引用した)

そう松陰を言わせるまでに成長しました。

「晋作の識を以って、
玄瑞の才を行えば、理想的だ」
と、松陰は考えていたようです。

また、松陰が指摘したように、
晋作は、わがままな性格が目立ち、
「自分の思うようにしないと承知しない」
という自己中心的なところがありました。

けれども、その一見独りよがりの自信は、
晋作の行動力を裏付ける有用な部分として
働いていたことも事実でした。

 

 

多くの英傑が高杉晋作と同級生

Takasugi Itoh松下村塾には、
久坂玄瑞高杉晋作の他に、
吉田栄太郎(稔麿)、品川弥二郎
伊藤利助(博文)、前原一誠
冷泉雅次郎飯田吉次郎などが、
すでに入門していました。

日本の初代内閣総理大臣となる
伊藤利助(博文)は
松下村塾では、晋作の弟分でした。

 


 

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