高杉晋作と天然痘と明倫館 吉田松陰との出会い

                                         

高杉晋作は、天保10年(1839)9月27日に
萩城下菊屋横丁の大組200石
高杉小忠太とみちの長男として生まれました。

吉田松陰よりも9歳年下、
久坂玄瑞よりも1歳年上になります。

高杉家は、
毛利家中興の祖・毛利元就からの家臣であり、
戦国時代から代々毛利家に仕えてきた名門でした。

明治維新に関わる他の志士の家柄で比べてみても

  • 桂小五郎 90石
  • 吉田松陰 57石
  • 久坂玄瑞 25石

であり、高杉家は、かなりの格式であることがわかります。

 


 

高杉晋作 天然痘にかかる

弘化3年(1846)8歳の時に
寺子屋である吉松淳蔵の漢学塾で
晋作は学びます。

この時、後に晋作と共に「松下村塾の双璧
と言われる久坂玄瑞と出会います。

a051261嘉永元年12月、10歳の時に
天然痘(疱瘡)にかかります。

江戸時代では、天然痘の大流行で
おびただしい死者を出すことは
全国的に珍しくはありませんでした。

この伝染病は、長州でも
周期的に流行していました。

晋作は、12月6日に高熱を出し、
はっきりとした天然痘の症状は9日に現れ
一時は絶望かと思われました。

けれども、シーボルトについて
西洋医学を学んだ青木周弼の診断により
一命を取り留めました。

けれども、「あばた」が
後遺症として顔に残った晋作は、
あずき餅」とあだ名されるようになりました。

 


 

高杉晋作 明倫館に入学

嘉永5年(1852)、晋作は14歳で
藩校・明倫館に入学します。

a111539幼少の頃から利かん気であった晋作は、
明倫館の講義が陳腐でつまらない
と怠けるようになり、
明倫館入学の頃から、
剣術修行に異様な情熱を示すようになります。

あばた面」で虚弱体質ということが
武門の子として劣等感となり、
そのコンプレックスの裏返しが、
強さ・たくましさを身につけることへの
強い情熱へと繋がったのかもしれません。

そして剣術の稽古に、もっぱら打ち込み
19歳で免許皆伝を得ました。

安政4年(1857)久坂玄瑞の誘いで
吉田松陰主宰の「松下村塾」に入門。
松陰と出会い、生涯の師として仰ぐようになります。

 

 

「松陰に会うな」と親から反対されていた高杉晋作

ashoin「国禁を犯しアメリカに渡ろうとした大悪人」
として吉田松陰は有名でしたが、
不思議なことに、大人からは同情されていました。

安政元年(1854)、
松陰が江戸の小伝馬町から野山獄に移されたその頃、
高杉晋作は15歳で「元服」を済ませていました。

明倫館に通っていた晋作は、
旧態依然とした藩の教育に飽き飽きしていました。

やがて松陰が開塾すると、晋作は気になり、
松陰の塾に顔を出してみることにします。

ところが、父の高杉小忠太春樹は、
息子の「吉田松陰との接近」は気に入りませんでした。

息子の晋作が、何となく松陰と似ている感じがして、
「いずれ大それた事をしでかすのではないか」
と気がかりで、晋作を松陰に近付けたくなかったのです。

けれども、単なる知識ではなく、
物事を実践する知識として教えていく松陰に
晋作は次第に引き込まれて行きます。

そうして松陰の下で一心不乱に勉学をして、
人物・高杉晋作」が形成されていきました。

吉田松陰と高杉晋作 2
 へと続く。

 


 

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