野山獄の獄囚「先生」になる そして福堂へ

                                         

吉田松陰と野山獄 1 からの続きです。

前述の如く「借牢」で刑期がなく入獄している
野山獄獄囚たちは、長い獄生活の中で
絶望と孤独に耐えていました。

「囚人だからといって、彼らを貶めるのは誤りである。
彼らもまた、心ある人間なのだ。」

松陰には、そんな信念がありましたので、
学問や教えによって獄を変えて、
獄囚たちが早く出獄できるように考えます。

 


 

獄囚と吉田松陰

WS000123松陰は、まず、書物を貸して
常に人を敵視していた獄囚たちと話をする機会をつくりました。

その一方で松陰は、
野山獄内の新入りとして自ら雑事を進んで行ない、
また正月の雑煮の野菜を工面したり、
病人のための医書を研究したりして、
獄囚たちのために働いて、
皆と打ち解け信頼されていきます。

松陰は、どんな人に対しても
和やかな人間関係をつくる名人でした。

 

そして「獄中座談会」が始まります。

松陰が、国禁を犯し黒船密航を企てた有名人であることは、
獄囚たちも多少噂に聞いていたいたようです。

他にも全国を周遊した松陰の話を、
みんな喜んで聞くようになりました。

松陰は、国家の様子など、色々な講話をしました。

世間と隔離された生活していた獄囚たちは、
松陰の熱心な講話によって、
様々なことを理解できるようになります。

生きる希望を失くしていた獄囚たちにとって、
それは本当に嬉しいことでした。

 


 

獄囚、先生となる

「人は皆、それぞれ得意とするものがある。せっかくだから、それを教え合おう」

と、松陰は野山獄内で勉強会を開くことを提案します。

野山獄には、幸い俳諧に長けた者、寺子屋を開いていた者、
さらには藩主の前で講義した富永有隣もいました。

後に国木田独歩が書いた小説『富岡先生』のモデルの
富永有鄰は恐ろしく字がうまかったようです。

最初、富永は松陰の字をバカにしていましたが、
ちゃんと「朱入れ」をして直してやっていました。
松陰に教えるのは苦労したらしいです。

そんな風に、彼らに書道や俳句の「先生」になってもらい、
松陰自身も彼らの生徒として熱心に学びました。

最初は「先生」になることを
遠慮して嫌がっていた獄囚たちでしたが、
それぞれの個性を認められて、
次第に生きる喜びを取り戻していきました。

性格に問題があるからと
周囲の者によって投獄された者たちにとって、
人に教えて喜ばれるという体験は、
屈折した心を正しく伸ばす効果がありました。

野山獄の中の雰囲気がみるみる変わっていきました。

「邪魔だ」「お前なんか生まれなければよかった」
などと、存在を否定されてきたこの囚人たちは、
「先生」として敬われて、皆が涙を流したそうです。

このような様子や獄の変化に、獄吏も感動しました。

 

 

獄吏も聴講 そして福堂へ

Print松陰は『孟子』の講義を行い、
読書会もしました。

松陰の『孟子』の講義は、
単なる字義解釈ではありませんでした。

人間の生き方や、外国の脅威が迫る中で、
今、日本は何をすべきなのか
という現実的な問題を例に出しながら、
獄囚たちと討論していくものです。

そのスタイルは、さながら松下村塾での白熱した講義そのものでした。
野山獄での講義が、松下村塾の原点と言ってもいいでしょう。

松蔭の野山獄での門下生は、獄囚だけに限らず、
門番や役人などの獄吏までもが
講義に耳を傾けるようになりました。

また、獄司福川犀之助の心をとらえ、
講義が始まると、福川は弟とともに
獄の廊下に正座して聴講するようになります。

松陰の学識と人柄に惚れ込んだ福川は、
その後、獄則で禁止されていた筆墨の使用を許可してくれたり、
夜間点灯を許可してくれたりと、牢内にさまざまな便宜を図り、
時に獄囚が一堂に会した講義も許しました。

そしてこの野山獄での松陰の講義をまとめたものが
後に『講孟箚(こうもうさっき)』(『講孟余話』)
と呼ばれるものになりました。

こうして、獄の環境も改善され
松陰は、野山獄を本当に福堂に変えてしまいました。

これらのことは、松陰が自主的に行ったことで、
誰かに命じられてやったことではありません。

松陰は、獄囚たちから慕われ尊敬され、
1年2ヶ月後に松陰が出獄した後も、
獄囚たちは、松陰と手紙のやり取りをし、
希望を持って牢獄の中で生きました。

その後、悔い改めた心情を認められ出獄する者や、
出獄後、松下村塾の手伝いをする者も現れました。

野山獄に松陰が入獄してから約3年後までに、
8人の獄囚が出獄しています。
これは毛利藩刑罰史上かつてないことでした。

 


 

コメントを残す