吉田松陰と松下村塾

                                         

安政2年(1855)12月15日、
1年2ヶ月の野山獄での獄中生活を終え
吉田松陰は、自宅に「禁固」となりました。

病気療養を名目とした帰宅許可でしたので、
釈放とは違いましたので、
杉家の3畳半の一室に
閉居せざるを得ませんでした。

しかし、自宅に戻っていきなり松下村塾を開校したわけではありませんでした。

今回は、その辺りを説明させて頂きます。

 


 

松下村塾

124594松下村塾の名前の由来は、
松本村で開いたある塾だからです。

「松本」の「(もと)」は
(もと)」とも読めるからです。

また、「松陰」の号の
「松」の由来ともなっております。

松陰が、実家の小屋を改修し、教室とし
その塾名を譲り受け主宰します。

松下村塾で松陰が教えていた期間は1年1ヶ月で、
塾舎ができる前から数えても、
2年4ヶ月という短い期間になります。

松下村塾の門下生は、推定約80名です。

 


 

松下村塾の沿革

tamakitei「松下村塾」は、叔父・玉木文之進が
天保13年(1842)に、
萩の松本村新道にあった自宅の一隅で
開いた塾でしたが
外叔の久保五郎左衛門が引き継いでおり、
二人とも「月謝の要らない寺子屋」にしてました。

野山獄を出所後、松陰は近所の子弟に
寺子屋として学問を教えることにしました。

本来は、「禁錮刑」だから、
人と会ってはいけないのですが、
松陰は優しい人だったので、
子供たちからは慕われていました。
中には不良少年もいました。

松陰の学問は奥深いので、寺子屋では勿体ない
父・百合之助とスパルタ教師の叔父・玉木文之進までが、
松陰の弟子となり、『孟子』の講義を聞くこととなりました。

実は、杉家に帰宅した翌々日から、
松陰は、父や兄、外叔の久保五郎左衛門の3人を相手に、
杉家の幽囚室で『孟子』の講義を行なっていいたのです。

この講義は、野山獄で行なっていた講義の続きで、
中途半端で終わらせるのは勿体ないとの理由から、
翌安政3年6月まで、断続的に続きました。

こうして松陰は、家の者を相手に講義を続け、
講孟箚記(こうもうさっき)』を書き上げました。

その後、松陰は
「門人を取って教えたい」旨を藩庁に願い出ました。

「幽囚の身ゆえ、外出はいかん。
しかし、弟子を取るのはよかろう」
と、藩庁から許可が出ました。

こうして、1857年(安政4年)に
明治維新の原動力となる
吉田松陰松下村塾が開校したのです。

この時、高杉晋作は、
松下村塾に興味を持ちましたが
寺子屋だと勘違いしており
「まさか寺子屋に弟子入りするわけにはいくまい」
と思っていたのでした。

 

 

松下村塾開校

shouka03吉田松陰は開校すると、
まず、松下村塾の規則を決めました。

  • 入塾には親の許可が要る。
  • 先祖を敬い、城を敬い、天朝を敬う。
  • 兄や年長者に礼を尽くす。
  • 弟や若輩者を愛する。
  • 塾中には礼儀を正しくする。

など、当たり前のことばかりでした。

罰則は、主に「座禅」でした。

松下村塾は、身分を分け隔てなることなく
塾生を受け入れました。

町民・農民はもちろんですが、
武士に仕えながら卒、軽輩と呼ばれた
足軽・中間なども入学できなかった明倫館とは対照的でした。

開校すると、早速、弟子入り志願がやって来ました。

  • 増野徳民 17歳 (周防の医者の息子)
  • 吉田稔麿 17歳 (隣家の侍の息子)
  • 松浦亀太郎 17歳 (魚屋の息子)

徳民と稔麿は、よく書を読むため、
松陰も講義に熱が入りました。

母・滝が朝ごはんを持ってきた時、
「おお、もう朝か ?」
と、松陰がのんきに言った程、
勉強に熱が入りすぎて、
徹夜したことにも気がつかないこともあったと言います。

また、魚屋の息子の亀太郎は、絵が達者で
「松浦無窮(むきゅう)」という号で
松陰の肖像画を残しています。

 

優しい松陰先生

ashoin松陰は、地位や年齢、学力に関係なく、
学問をやりたい人には教えました。

14歳という若さで入門した横山重五郎は、
吉田松陰は黒船に乗り込もうとした人だ」
と、藩内で有名でしたので、
「鬼のように怖いだろう」
と、松陰のことを想像していました。

けれども、松下村塾に行き、
出会った松陰の印象は、
たいへん心の優しい人でした。

「勉強しなされ ! これは藤田彪という人の本だ」
「藤田という人は・・・」
などと、松陰は丁寧に教えてくれました。

16歳でやって来た馬島春海は
教えるということはできませんが、共に勉強しましょう
と、松陰から言われて迎えられました。

松陰は、入門者のことを
「弟子」とは呼ばず「」と呼びました。

二人の少年は入門の日に、吉田松陰の
「年少の者に対しての謙虚さ」
に驚いたといいます。

 

 

松下村塾での教育

shouka02 松陰と出会うまでは、
高杉晋作、伊藤博文、山県有朋をはじめとする
明治維新の立役者は、ごく普通の一青年でした。

彼らは、松陰と出会い、
そして松陰の教育を受けることにより
江戸幕府の終焉・明治維新を実現させるような
人物に変容して行きました。

松陰は、まさに「人を育てる天才」でした。
松陰は、教育の原点は「個性教育」にあるとして
一人一人の個性を大切にしました。

人それぞれ良さがある。
良くないところを指摘するのではなく
良いところを見出して
それを伸ばしていく

というのが、松陰の教育方針でした。

野山獄も、この松陰の教育方針により
獄囚が変わり、獄は福堂に変わりました。

また、塾生達を信頼して敬愛するという
人間関係の中で、松陰は教育を実践してました。

塾生達と「同志・友人」として接し、
共に学ぶ」という姿勢を貫いています。

規則はあっても、それで塾生達を
縛ることはありませんでした。

塾生と共に食事をとり、共に畑仕事をし、
遠方の塾生とは一緒に寝泊まりをしていました。
塾舎の建て増しも、塾生と共にしました。

また、松下村塾は、来る者は拒みません。
身分、年齢、学力に関係なく塾生を受け入れました。

当時の藩校・明倫館では、
限られた士族しか入学できませんでしたが
松下村塾では、塾生の半分が
足軽や町民などの庶民でした。

しかも、授業料も、誰からも取りませんでした。

松陰は、読書を奨励し、労作を重視し、
師弟同行の教育をしました。

授業の内容も、
松陰が解説をするという講義だけでなく、
時事問題や今後の展開などについて、
塾生と一緒に考えて話し合う
「討論会」を重視しました。

これも野山獄で行っていたことです。
ある意味、野山獄は、
松下村塾のシミュレーションだったのかもしれません。

新入りの塾生は、
先生が座る場所も決まっていなかったので
どの人が「松陰先生」なのか分からなったそうです。

 


 

コメントを残す