吉田松陰と久坂玄瑞 2

                                         

吉田松陰と久坂玄瑞 1 からの続きです。


久坂玄瑞
からの手紙は、
宮部鼎蔵に会ったこと、
宮部鼎蔵が松陰を褒めていたことから始まり
日本を憂うことが延々と書かれているものでした。

さらに
「蒙古襲来のとき、
モンゴルの使者を斬ったように、
米使を斬るべきだ」
という過激な一文もありました。

攘夷実行のために黒船密航まで行なった松陰の歓心を狙う部分もありました。

 


 

久坂玄瑞の手紙の内容を激しく攻撃

すぐに吉田松陰から返事が来ました。

普段は、弟子や他人を悪く言うことがなく
注意することすらない松陰
玄瑞の手紙には、激しく攻撃して来ました。

「この手紙には、世相のあらすじを述べたにすぎない。
名利を求めているだけだ。君の議論は誠に浮薄である。
米使を斬るなら、嘉永6年のペリーにやるべきであった。
いまは時代が進んでいる」

松陰の手紙にはこのように書かれており、
松陰からの酷評に、玄瑞は驚きました。

この種の文を憎み、この種の人を憎む
とまで言われてしまったのです。

思ってもいない反応でしたが
これは松陰の、人を量り、
その本性を引き出すための作戦でした。

久坂玄瑞の並外れた英才ぶりを手紙で感じた松陰は、
あえて批判を与えることで、
大いに鍛えてやろうという想いで
「わざと」酷評の手紙を送ったのでした。

実は、玄瑞の手紙に松陰は、
小躍りするほど喜んだらしいです。

玄瑞に吉田松陰への紹介状を書いた土屋簫海は
玄瑞の兄・玄機と仲がよく、
早世した玄機が、生前「おもしろい弟がいる」
と言っていたのでした。

「もし玄瑞が腹を立てて、それっきりならそれでよし。
しかし、そうではなかろう」

と、松陰は土屋簫海への手紙に書いています。

案の定、松陰の期待通りに玄瑞は
獅子のごとく「反撃文」を送りつけて来ました。

 


 

3度の手紙の応酬

玄瑞は手紙でこう主張しました。

攘夷は遅くない。
兎を見て犬を飼う。 羊が逃げてから檻を直す。
やらないよりいいではないか。
今から米使を斬るのも遅すぎない。

あなたが言うように、私は一介の医者だ。
その医者が天下国家のために命をかけて何がいけない」

だんだん語調が荒くなっていきます。

それに対し松陰は、
コンコンと説教する返事を書くも
玄瑞は、3度目の手紙を書き、
自分の攘夷論を展開しました。

すると今度は、松陰から
なかなか返事が来ません。

「本当に怒らせたか」
と玄瑞は、不安になります。

松陰は、玄瑞が骨のある男と見込んで、
わざと1ヵ月の間をおいて返事をしました。

「一時の憤激から文章を書くのではなく
また実践を伴わない空説を語るのでもなく
日本の未来のために考えてほしい」

しかし、今度も玄瑞が
自分の理論の誤りを認めようとしないため、
説得できないと覚った松陰は、
玄瑞の理論を認めた上で
少しトーンを変えて、再度、手紙を書きました。

「僕の才略はあなたに到底及ばない。
僕もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、
無益であることを悟ってやめた。
(中略)
あなたは言葉通り、断固としてやってほしい。

もし、そうでないと、
僕はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。
あなたは尚、僕に向かって反問できるか」

この書簡の往復を通して
松陰が玄瑞に諭していたのは、

「口先だけで理想や勇ましいことを言うのではなく、
言うからには、必ず実行せよ。

それができもしないことであれば、
軽々しく言うな。

自分の発言がどんなに重要なものか
自分の言葉には責任を持て

ということでした。

 

久坂玄瑞 松下村塾に入門

124594実践に裏付けされた松陰の強い言葉を
ようやく玄瑞は悟ります。

それから約1年後の1857年の晩春
18歳になった玄瑞は、
松陰の友人である中谷正亮に誘われて
吉田松陰の元にやって来ます。

そして、正式に松下村塾に入門しました。

その後、玄瑞は、
幼友達の高杉晋作にも入門を勧め
松下村塾では、高杉晋作とともに
村塾の双璧」て云われ
高杉晋作吉田稔麿入江九一とともに
松門の四天王」と云われるようになります。

松陰は、久坂玄瑞を長州第一の俊才
防長年少第一流の男」と評し
わざと高杉晋作と競わせ高め合い
両者の才能を開花させるよう努めました。

 


 

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