吉田松陰と久坂玄瑞 1

                                         

安政3年(1856)、伊豆に
アメリカ総領事官ハリスがやって来ます。

嘉永7年(安政元年)の「日米和親条約」で
果たせなかった通商を実現するためである。

日本は清国(中国)で起きたアヘン戦争を
研究・分析していたことが交渉に役立ちました。

また、アヘン戦争は多くの若者達に
「このままでは日本は危ない」という「危機感」を植え付けました。

もちろん高杉晋作や久坂玄瑞も、この危機感を持っていました。
玄瑞は「ハリスを斬る」とまで息巻いていました。

 


 

医者の息子 久坂玄瑞

天保11年(1840)に萩の平安古(ひやこ)の
25石の藩医・久坂良迪と富子の
三男として久坂玄瑞は生まれました。

幼名は、秀三郎と言い、
20歳年上の長男・玄機がいて、
次男は早世していました。

貧乏医師の家庭でしたので、
人の家の表座敷を間借りして住んでいました。

通称は義助でしたが、
元服して「玄瑞」となりました。

玄瑞は医者の息子でしたので
洋楽を学んでいましたが、医学は嫌いでした。

「病人を治療するのではない。日本を治療するのだ」
と、玄瑞は息巻いてました。

 


 

天涯孤独の久坂玄瑞

プリント久坂玄瑞は、幼少の頃より四書の素読を
萩城下の寺子屋・吉松塾で受けており
高杉晋作とも机を並べていました。

それから藩校・明倫館で学んでましたが
医学を学ぶため長州藩の医学所・好生館に入学するも
14歳の夏に母・富子を亡くします。

翌年には、兄・久坂玄機も病死します。

兄の久坂玄機は、
緒方洪庵から適塾の塾頭に懇望されるほどの
優れた医者であり、蘭学者であり、強烈な攘夷論者でした。

欧州列強の帝国主義を論じて、
国防の急務たることを力説していました。

玄瑞の才能も考え方も、
こうした兄・玄機の影響を大きく受けています。

藩命により海防策の立案を命じられた玄機は、
病床の中、意見書を二昼夜不眠で執筆し、
その無理が祟り、筆を持ったまま、
絶命したと云われています。

兄の死の数日後には、父・良迪も他界し
玄瑞は天涯孤独の身となりました。

不幸が続いた後、藩医の久坂家の当主となり
頭を丸めて医者となり、
「秀三郎」「から「玄瑞」へと名を改めました。

16歳の頃になると、
玄瑞の才知は長州藩の内外に知れ渡り
17歳で、成績優秀な者が藩費で寄宿舎に入れる
好生館の寮生となりました。

けれども、玄瑞の本心は、
医者になることではなく
「天下を救う」ことであり、
亡き兄の志を継ぐことにありました。

 

 

吉田松陰を紹介される

久坂玄瑞の亡き兄・久坂玄機と親友であった
周防の僧・月性(げっしょう)から、
「一度、吉田松陰に会ってみるといい」と
玄瑞は、再三勧められていました。

時習館という塾も開いていた月性は、
早くから討幕を主張しており、
松陰とは書簡で論争する仲でした。

その頃の吉田松陰は
「アメリカに密航を企てた罪人」として有名でしたので
「会う気はありません」と玄瑞は断りました。

けれども、その後も、口羽徳助など
「吉田松陰に会った方がいい」と
行く先々で勧められます。

安政3年(1856)の前半には
玄瑞は、中村道太郎の勧めで
藩に願い出て3ヶ月の九州遊学の旅に出ました。

その時に、熊本で兵学者の宮部鼎蔵に会い
吉田松陰に師事することを玄瑞は勧められます。

宮部鼎蔵は、松陰が絶対の信頼を持つ
無二の親友でした。

尊皇攘夷の巨魁として名を轟かせていた宮部鼎蔵から
松陰が傑物であることを聞かされた玄瑞は
吉田松陰に関心を持つようになりました。

それでも玄瑞は、長州に戻っても
直ぐには松陰のもとを訪れはしませんでした。

明倫館の講師である土屋簫海からは
松陰に「紹介状」を書くほど、
吉田松陰に会うことを勧めれました。

玄瑞には、子供染みたところがあり
「甘く見られたくない」という思いから、
松陰には会わずに、手紙だけ出すことにしました。

 

 

杉文と久坂玄瑞との出会い

a-musume玄瑞は、松本村の松陰宅に
土屋蕭海の紹介状と手紙を持ってやって来ました。

案内を請うと、文が出てきます。

「土屋さんの紹介で參りました」

「土屋さんの紹介なら、兄は会うと思います」

「いえ、会いません。手紙を渡すだけでいいんです」

玄瑞は、松陰には直接会わず
手紙だけを置いて逃げるように帰りました。

玄瑞は、このような形で文と出会いましたが、
この少女とまさか結婚することになるとは
思っていなかったことでしょう。

吉田松陰と久坂玄瑞 2
 へ続く

 


 

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