吉田松陰 江戸送還 1

                                         

安政6年(1859)4月20日
吉田松陰の身柄を差し出すよう
幕府から長州藩江戸藩邸へ
命令が下りました。

この報せは、すぐに萩に届きます。

5月14日に野山獄を訪ねた兄・梅太郎から
松陰はそれを知らされますが
松陰は、あまり驚かなかったと言われてます。

松陰を召喚する理由を
幕府は明らかにしてませんでした。

仮にそれが老中暗殺計画だとしても、
未遂であれば罪はないと
松陰は考えていたとも言われています。

けれども、
暗殺計画の嫌疑が召喚の理由であれば、
生きては帰れる保証はありません。

生きて帰れぬ覚悟は松陰も固めていたことでしょう。

 


 

長州藩と松陰

a-hagijoh-onoそれから10日後の5月25日が
萩の出立日となります。

この機会に、幕府に
言うべきことを言いたいと
松陰は考えていたようです。

けれども、藩の方では、
松陰が、過激で正直過ぎることを
心配していました。

「江戸表の取り調べで、あらぬことを口走り、藩に累をおよぼしてはいかん」
ということで
「いっそ自害させろ」「暗殺しろ」
という意見まで出ました。

しかし、松下村塾生、門弟、藩や江戸には
200名は超えるであろう
大勢の松陰の支持者がいました。

だいたい藩主・毛利敬親自体、
松陰のファンなのですから
松陰の反対派の人間も
手を出すことができませんでした。

そのため、江戸に行ってから
余計なことを言わぬよう
江戸への出立までの間、
藩は、何度も松陰に
念押しをしたと言われています。

もちろん松陰も
藩には迷惑はかけられないと
考えていますので

「この身が微塵に砕かれても藩政府に咎が及ぶようなことはしない」
と、松陰は藩に伝えていました。

 


 

至誠にして動かざるは、未だ之有らざるなり

ashoin001そうは言っても・・
至誠にして動かざるは、未だ之有らざるなり」
という信念も揺らぎません。

自分も藩も朝廷を尊び幕府を敬い、
日本のためをひとえに思っています。

それを幕府が誤解、あるいは
幕府の考え方が間違っていれば、
堂々と主張して正したい・・・
至誠をもって説けば、
必ず幕府もわかってくれるはずだ・・
と、松陰は信じていたのです。

下田で黒船への密航失敗で
捕らえられた時、
松陰の志に対して
幕府は一定の理解を示し、
国禁を犯して死罪になって当然のところ、
国許での蟄居で済ませました。

この時の経験が、よく話せば、
幕府も理解してくれるだろう
という感覚を、松陰に抱かせることに
なったのかもしれません。

 

 

松陰の肖像画

shouinそんな中、野山獄の司獄・福川犀之助が
松陰にお別れにと、松浦亀太郎と
岡部富太郎を野山獄に連れて来ます。

「松浦に先生の肖像画を描かせてください」
との福川の言葉に、
松陰は少し驚きましたが
描かせることにしました。

この時、7枚描いたと言われており
萩や世田谷の松蔭神社に
その肖像画は今もなお現存しております。

江戸送還 2 へと続く。

 


 

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