入江九一と野村靖 その1

                                         

松下村塾四天王の一人の入江九一
天保8年(1837)、
その弟・野村靖は天保13年(1842)に
地方組中間・嘉伝次と満智の子として
萩に生まれました。

九一は杉蔵、靖は和作とも称します。

兄弟なのに姓が異なる理由は・・
本来は野村姓だったのですが
事情があって両親の代に入江姓を継いだため、
兄・九一が入江姓を継ぎ、
弟・靖は、本来の野村姓を名乗ったと
靖が記した『追懐録』にあります。

また兄弟の妹・すみ(寿美子)は、
のちに伊藤博文の最初の妻となります。

 


 

松下村塾入門

安政3年(1856)、兄弟の父である嘉伝次が急死します。

20歳の入江九一は家督を継ぎ、
家計を支えるために
江戸藩邸で事務の下役を務めることになります。

翌年の安政4年(1857)、16歳の野村靖
松下村塾に顔を出すようになり、
その冬には門下生として通います。

ashouka002同年9月頃、吉田松陰は
吉田稔麿から入江九一の人物を聞き、
九一を松下村塾に勧誘します。

しかし、江戸と萩を往復する九一は
なかなか暇がなく、
翌年の安政5年(1858)の7月、
使いで萩に滞在した際に、
初めて松陰の許を訪ねることができました。

短い時間でしたが、松陰と九一は
すっかり意気投合します。

すぐに江戸に戻らねばならないという
九一に対し、松陰は、
送辞として一文を贈ります。

「吾れの甚だ杉蔵(九一)に貴ぶ所のものは、
その憂いの切なる、策の要なる、
吾れの及ばざるものあればなり・・」

藩邸の下役に過ぎない自分を、
これほどまでに評価してくれる・・
松陰へのこの時の感激が、
九一のその後を決めたのかもしれません。

同年11月、萩に戻った22歳の九一は、
正式に松陰に入門しました。

松下村塾四天王の中では最年長であり、
最も遅い入門でした。

一方、弟の靖については

「和作(靖)と申すもの、
杉蔵の弟にして才気があり、
頗る読書を好み候」

「小年中の傑出」と、松陰は評しており、
将来に期待が持てる少年という風に
見ていたようです。

 


 

松陰に従う入江九一・野村靖兄弟

akurofune九一が入門した安政5年は
激動の年で、6月19日には、
幕府が、勅許を得ずに
通商条約を結んでしまいます。
これに憤った松陰は、
上洛する老中・間部詮勝の要撃を企てます。

ところが、この計画は藩当局に洩れ、
12月に松陰は野山獄に投獄されたため、
11月に入門した九一は
松陰から学べたのは、
結局、僅か1ヵ月となりました。

松陰の投獄に対して、
藩に抗議したかどで、
入江九一や吉田稔麿は
自宅謹慎となってしまいます。

野山獄の獄中から弟子たちに対し
さまざまな指示を松陰は出しますが、
「時期尚早」と、
多くの弟子が松陰を諌めます。

そんな中にあって、
入江九一と野村靖兄弟だけは
あくまで松陰に従い、行動します。

九一は謹慎中であるため、
弟の靖が、松陰の密命を帯び
京に向かい攘夷派の公家・大原重徳を、
萩に招聘しようと試みるも
藩に発覚し、靖は連れ戻されます。

そして、靖も、兄・九一と同じく
謹慎の身となってしまいます。

入江九一と野村靖 その2 へと続く。

 


 

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