人は旅で数多くの賢人と会い、
学識を広めることができます。
当時は、本を読むことと同じくらい
旅は大切なことでした。
「久坂玄瑞は、秀才にありがちな
度量の狭いところがある。
これを直せば、
岩をも通すような実力を発揮する」
そう考えた吉田松陰は、久坂に
旅に出て 見聞を広めることを強く勧めました。
久坂玄瑞への紹介状
- 恩師・佐久間象山
- 頼山陽の門下・森田節斎
- 親友・桂小五郎
など、沢山の紹介状を書きました。
さらに松陰は
「実甫よ、征け」と
送別の詩を書きました。
「実甫」とは、
久坂が松陰より与えてもらった号です。
久坂は、正月に藩庁から
江戸への遊学許可をもらい
2月末に出発しました。
前年の安政4年(1857)12月5日に
結婚しましたので
新婚ホヤホヤでしたが、妻の文も
久坂を明るく送り出しました。
久坂が江戸に着いたのが
安政5年4月でしたので、
まさに井伊直弼が大老になった
タイミングでした。
梅田雲浜
道中の京都で久坂は中谷正亮と会い
5日間程ほど行動を共にします。
京都で二人は梅田雲浜に会いました。
通称は源次郎、名は義質、
雲浜と言うのは、号です。
朱子学の大家であり、
幕府を批判して追放され
浪人の身となっていました。
尊王攘夷を唱え、
将軍継嗣問題では「一橋派」に属していました。
久坂は、雲浜の横柄な物言いが
あまり好きではありませんでした。
雲浜が、松下村塾を訪れた時も
塾生達をバカにして相手にしませんでしたので
「松陰先生とは、えらい違いだな・・」
と、塾生たちは呆れていたと言います。
梅田雲浜は、
井伊直弼の安政の大獄で逮捕され、
拷問されても何ひとつ口を割らず、
そのまま獄中死します。
「京都の女」との出逢い
久坂が、雲浜の家を訪れた時、
家事を手伝いに来ていた一人の女性が
久坂と目が合います。
彼女は井筒タツという京都の町医者の娘で
京都島原では辰路という名で
芸者をしていました。
年の頃は、文と同じくらいで
黒目がちな美少女でした。
この井筒タツがのちに
久坂の「京都の女」になった
と、言われています。
京都に尊王攘夷運動でいた久坂は、
井筒タツと親しくなり、恋仲になります。
そして、この事は
萩の故郷の文は知りませんでした。