第2話 「波乱の恋文」で寅次郎は脱藩します。
第2話が、ラブコミのような部分が強調されていて
肝心な寅次郎の東北遊学の時に
脱藩した理由や背景が
何だかボヤケてしまっていたため、
このままでは「フーテンの寅次郎」
になっちゃいそうなので
もう少し、噛み砕いた説明をさせていただきます。
東北遊学までの流れ
寅次郎は伊之助との江戸遊学中に
当時高名な思想家であり兵学者である
佐久間象山に入門を許されます。
そして、寅次郎は、
一刻を争う北の防備を確かめるため
「次は東北沿岸巡ってロシア船の様子を確かめる」
と、長州藩からの過書手形(通行手形)を待っていました。
この東北遊学を、共に計画した友人の
宮部鼎蔵と南部の江幡五郎との
出発日の約束を守るため、
長州藩からの過書手形の発行を待たずして
脱藩してまでも出発してしまったのです。
- 水戸 ⇒ 会沢正志斎や豊田天功らと面会
- 会津 ⇒ これは「八重の桜」でも少し出てきましたが、8日間程の滞在で、
志賀与三兵衛、高津平蔵、井深茂松などの会津藩士と交流
学制、兵制日新館などの諸施設、東北の鉱山の様子等を見学 - 秋田 ⇒ 相馬大作事件の真相を住民に尋ねる
- 津軽 ⇒ 津軽海峡を通行する外国船を見学しようとする。
そして、江戸に帰着後、罪に問われた寅次郎は
いさぎよく士籍剥奪・家禄没収の処分を受けました。
友人との約束を藩命より優先した寅次郎
時系列的に整理してみます。
嘉永4年 (1851) | 7月22日 | 東北遊学を藩から許可 |
7月29日 | 佐久間象山に入門 | |
12月14日 | 過書手形の藩からの下付を待たずに脱藩し 東北遊学に出立 |
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嘉永5年 (1852) | 4月10日 | 江戸の桜田藩邸に待罪書を提出、藩より帰国の命 |
5月12日 | 萩に到着、杉家にて謹慎 | |
12月 8日 | 脱藩の罪により士籍・家禄を没収 |
脱藩が流行した幕末期とは違い、
この頃は、まだ幕藩体制の秩序が保たれている時期ですので
せっかく藩から東北遊学の許可をもらっていて、
あと手形だけの問題なのに
なぜ手形を待てずに、
友人との出発日の約束を守るために脱藩までしたのか?
本当に不思議に思えてしまいます。
けれども、それは、寅次郎にしてみたら
『人間の本義』のためだったのです。
『人間の本義』とは、約束の厳守。
約束を破ることは、それこそ長州武士の名折れ、
長州藩に対する罪となるという寅次郎のポリシーからでした。
ドラマ「花燃ゆ」では、手形が出るまでに時間がかかり
業を煮やして脱藩した・・・みたいな言い廻しでしたが
そんな短気な話ではなく、
もっと寅次郎の信念や生き様に基づいた行動だったのです。