真田丸での攻防

                                         

最終話まで その1 からの続きです。

豊臣秀吉の死後、徳川家康が台頭する。

これにより豊臣政権の派閥争いが激化し
石田三成が失脚に追い込まれる。

慶長5年(1600)そんな中、
会津に帰国した上杉景勝が
家康の上洛要求を拒否したことから
家康が上杉征伐の兵を挙げる。

すると、三成が家康を弾劾し
挙兵して関ヶ原の戦いに至る。

 


 

関ヶ原の戦い

信繁は、父・昌幸と石田方の西軍へ、
兄・信幸は、妻が本多忠勝の娘のため
東軍へ加勢する。

東軍のうち、徳川軍本隊を率いる
家康の嫡男・秀忠は中山道を西進する。

上田城に籠もった昌幸と信繁は、
秀忠の大軍を迎え撃つ(第二次上田合戦)。

少数の真田勢に手こずった秀忠軍は
家康の命により、上田城攻略をあきらめ去る。

昌幸と信繁の善戦もおよばず
三成率いる西軍は関ヶ原で敗北する。

敗軍の将として、昌幸と信繁は
死罪を言い渡されるべきところを
信之(信幸より改名)と
その舅・本多忠勝の取りなしで
高野山への配流となる。

二人は、その麓の九度山で
蟄居生活となるが、
慶長16年(1611)に父・昌幸が
蟄居中に死去し、翌年、信繁は出家し
好白と号する。

 


 

豊臣家への恩義に生きる信繁

慶長19年(1614)
豊臣秀頼が再建した方広寺の
「国家安康」の鐘銘を、自分の名を
二つに切って呪うつもりではないか・・
と言い掛かりをつけ(方広寺鐘銘事件)、
徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。

豊臣家は大名の加勢が期待できないため
浪人を集める策を取り、
九度山の信繁にも声がかかる。

信繁は、豊臣家への恩義を感じていたため
九度山を脱出して子・大助(幸昌)と
ともに大坂城に入る。

やがて迎えた大阪冬の陣では
信繁たちは浪人衆の野戦案を訴えるも
却下され、大坂城での籠城策となる。

信繁は、防衛面で弱点となっている
城の南側に「真田丸」という出城を築く。

信繁は、この出城で鉄砲隊を用い
敵兵に大打撃を与え、徳川勢を撤退させる。

そして、大阪冬の陣の和睦に伴う
堀の埋め立て工事の際、
真田丸」は取り壊される。

さらに豊臣方の弱体化を図るため
家康は、信繁の叔父・真田信尹を使者として
信繁を徳川方へ寝返るように説得にあたる。

どんな好条件を積まれようとも
信繁は、決して応じなかった。

 

 

大輪の花を咲かせる信繁

そして和睦から半年後、
大阪夏の陣が勃発。

豊臣方の戦況が苦しい中、信繁は
家康の首だけに狙いを定め、
真正面から家康本陣へ突撃する。

死に物狂いの奮戦で
一時は、家康に死を覚悟させる程
窮地に追い詰める。

しかし、兵力で勝る徳川軍に挽回され、
四天王寺近くの安居神社の境内にいたところ
信繁は討ち取られる。

享年49、信繁が、ようやく
大輪の花を咲かせた瞬間であった。

その翌日、大坂城は落城し、
秀頼や淀君たちは自害し、
信繁の子・大助も殉死する。

信繁の奮戦むなしく、豊臣家は
こうして滅亡した。

 


 

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