秀吉の天下統一

                                         

羽柴秀吉は、上洛の要求に応じない
徳川家康の元に、実母・なかを
人質として送る。

そして、ついに家康は、
重い腰をあげ、秀吉に臣下の礼をとる。

秀吉に家康が臣従すると、
天下の趨勢が決まったと
真田昌幸は判断する。

すると昌幸は、上杉景勝よりも
秀吉に臣従すべきと考え、
秀吉の人質に信繁を差し出してしまう。

これに怒った景勝は、秀吉に
信繁の返還を求めるが、
秀吉は取り合わない。

 


 

徳川家康との和睦

天正14年(1586)、
第一次上田合戦以降、
睨み合いの状態が続いていた
昌幸と家康は、
家康が秀吉に臣従したことにより
ついに和睦する。

同年11月、昌幸は、秀吉の命令により
家康の与力大名となる。

そして、嫡男・信幸は、
家康の重臣・本多忠勝の
娘・稲(のちの小松姫)を、
信繁は、豊富家臣・大谷刑部吉継の
娘・竹林院を、それぞれ正室に迎える。

 


 

小田原攻め

昌幸・家康・景勝を臣従させた秀吉は
薩摩の島津義久を降伏させて
西日本を平定する。

そして、秀吉は、
関東の北条氏を従属させるため
真田氏が所有を主張していた
沼田領の裁定に乗り出し、
沼田領の3分の2を北条氏、
残り3分の1を真田氏のものとして
その代替地は家康が昌幸に与える・・
と決める。

しかしながら、天正17年(1589)11月、
北条家家臣・猪俣邦憲が
真田氏の名胡桃城を奪取し、
秀吉の定めた惣無事令を破ることとなり、
翌年、秀吉は小田原征伐を実施した。

信繁は、昌幸の元に配属され、
景勝らの軍勢とともに参戦する。

また、石田三成の指揮下で、
大谷刑部らと忍城攻めにも加わる。

同年7月5日、北条氏直が、
城兵の命と引き換えに切腹し、
小田原城の籠城軍は降伏・開場する。

そして秀吉は、
奥州の大名に恭順を求め
天下統一が達成される。

 

 

朝鮮出兵

文禄元年(1592)、豊臣軍は朝鮮出兵し
(文禄の役)昌幸・信幸・信繁は
肥前名護屋へ出陣する。

当初は勝ち戦を続けた豊臣軍であったが
朝鮮水軍の前に苦戦を強いられる。

制海権を失い、物資の輸送路が寸断され
豊臣軍は、明軍との間に講話を模索するも
明側が講和条件に難色を示し交渉決裂。

慶長2年(1597)、再び朝鮮出兵する。(慶長の役)

翌年、秀吉が62年の生涯を閉じると
豊臣軍は撤退する。

朝鮮出兵の間に、信幸は伊豆守、
信繁は佐衛門佐に任ぜられる。

最終話まで その2 へと続く。

 


 

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