徳川家康と武藤喜兵衛

                                         

天正10年(1582)3月20日。
真田昌幸一行は、信州・諏訪の法華寺に、
織田信長と対面するために入る。

徳川家康も来ていることを知った昌幸は、
三方ヶ原の戦いを思い出した。

昌幸は当時、武田信玄から授かった
武藤喜兵衛」という名を名乗り、
三方ヶ原の戦いでは、
とことんまで家康を追い詰め、
武田軍を大勝利に導いたのであった。

 


 

器の小さい室賀正武

武田全盛期時代に昌幸が思いを馳せていると、
一足早く織田氏の陣営に加わっていた
国衆の室賀正武がやって来る。

室賀は、織田信忠から
すでに領土を安堵されていたため
余裕の表情で昌幸に、
真田家と上杉家の密約の件が
信長の知るところとなっているので
命が惜しければひたすら詫びるべき・・
と、助言し去っていく。

昌幸と信繁は、密書を信長に届けたのは
室賀と知っていたため、
その器の小ささに呆れ返った。

同時に、室賀の怯える様子から
信繁は、まだ見ぬ信長への
恐怖心が掻き立てられた。

 


 

「武藤喜兵衛」という名前

その頃、法華寺内では、穴山梅雪が
家康と対面していた。

同じ武田氏の配下であった小山田信茂が
主君への不忠の咎めで処分されたことを受け、
信長の気まぐれで、自領が没収されないか
梅雪は恐れていたのだ。

そんな折、信長に呼ばれて昌幸が
法華寺にいることを、家康は
側近の本多正信より報告を受ける。

家康は、「真田」という名前には
聞き覚えはなかったが、
武藤喜兵衛」という名前は、
はっきりと覚えていた。

 

 

図太い神経

一方、控えの間では、昌幸は、
生きるか死ぬかの瀬戸際にもかかわらず、
アクビをしながら、図太い神経で
信長との対面を待っていた。

信繁は、織田方の備えを自ら確かめようと、
寺をうろつき始め、弓立てに
無数の弓が整然と並んでいる光景を目にする。

弓一つ取っても、決して疎かにせず
手入れが行き届いていることに信繁は感心し、
「さすが天下の織田だ」と
弓を点検している武将に賛辞を贈る。

その武将こそ、
徳川四天王のひとりの本多忠勝であり
その弓も徳川家のものであった。

そこへ素性を隠した家康が現れる。

 

 

因縁の対面

そうとは知らずに信繁は、
寸分違わずに並ぶ弓を称賛し、
家康の几帳面を言い当てるばかりか、
真田家の弓立てには、
すばやく大量の弓を運べるように
信繁考案の車輪がついており、
真田軍の弓の方が、
はるか先を行っていることを言及した。

そこに昌幸と矢沢三十郎が現れ、
昌幸は、家康と因縁の対面を果たした。

信繁は、話をしていた相手が
まさか徳川家康とは思わなかったのだが、
そんな信繁を家康は笑い飛ばし、
弓立ての車輪を徳川方の陣中でも
用いると話しかける。

家康は、その後の半生、
何度となく真田父子に
煮え湯を飲まされることになるのだが、
それは、まだ知る由もなかった。

第4話「挑戦」その2 へと続く。

 


 

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